八丈島では文化的な活動が盛んな土地です。ですが、私が八丈島に住んでいたときは、一般にいわれている「芸術」とよばれるものには一切お金をかけませんでした。
どうしてかといいますと、私自身が絵画のような美しい八丈島に住んでいたからでした。周囲の景色を見回すだけで、目が満足していました。
現在は、私は都心に住んでいます。都心にはたくさんの美術館があり、「芸術」というものはいたるところで見られます。
今日は、「私から見た田舎の芸術と都心の芸術の違い」と題してのお話です。
私から見た八丈島という自然の芸術
私がフィールドが好きなのは、明確な「美」という基準が無いからです。八丈島では年間3,000 mmもの雨が降り、同じように見えても、地形が絶えず変わります。
海であったら波の形、山であったら土砂崩れと、昨年はこうだったのに今年は違うということはよくあります。
これは、自然を基盤とした生き物にもいえます。地形の変化に大きく影響を受け、観察していますと、野鳥の行動は毎年変わっていました。
写真を撮る側として、いいフィールドを見つけたとき、
こうだったらいいのなぁ・・・
というのが続くときもあれば、翌年はその希望が打ち砕かれることもあります。
変化の富んだ世界というのも自然の一部です。自分にとって、美しいときも、そうでないときも、そこに住む人は素直に受け止めます。
私は、これらを自然が描いた芸術だと思っています
私から見た都心の芸術
都心に住むようになってから、私から見える世界は大きく変わりました。八丈島と比べて、変化が乏しいと感じました。
でも、これは個人的な感想。これだけの多くの人が限られた範囲の中で生活するためには、造ったものは30-50年くらいは同じ形でなければ安全ではありません。
「変化が乏しい」は都心の社会を維持するためには正しい運営方法です。
ただ、細胞の集合体である人間は、どこに住んでも「人間」です。固定された世界で生き続けるためには、何らかの変化と接することが、ときとして必要となると思います。
それが、都心における「芸術」の役割なのではないかと私は思います。
私から見る田舎の「芸術」と都心の「芸術」の違い
私が使う同じ「芸術」という言葉でも、八丈島と都心では違うと思います。
八丈島では、自分が好む、あるいは、好まないものであっても、抗いようもないものですので、どちらも受け入れざるを得ません。
そして、好まないものは知らず識らずのうちに自分の中に入り、自身の変化のきっかけとなります。
一方、都心の芸術は誰か(芸術家)の信念の基に創作されています。その芸術は、見る人が好む好まずにかかわらず存在しますが、それはあくまでも人間が作り出したものです。
色の組み合わせや造形の奇抜さで引き込まれはしますが、本物の自然からくる美しさや理不尽さと比べますと、人のルールの範疇です。
私は自身の価値観の予測外の方が好みです。そして、その予測外の現象は、数え切れないくらい繰り返して、偶然見つかるものです。
唯一無二は簡単には見つかりません。だからこそ、私は価値があると思っています。
都心の「芸術」は心を癒やしてくれます。でも、私の場合は裏切られても田舎の「芸術」の方が好きです。
今日は、「私から見た田舎の芸術と都心の芸術の違い」と題してのお話でした。
都心は社会を維持するためにも固定が基準です。簡単に変化してはいけません。その代わり、芸術家が創作した変化のあるものを鑑賞し、心を癒やします。
八丈島のような田舎の世界は、人が受け入れられる美しさだけでなく、理不尽な現象もあり、人の価値観を変えていきます。
私が書きました田舎の「芸術」が「芸術」であるかは異論があるかも知れません。でも、私は、自身の無知を自覚させ、新たな価値を気づかせ、多くの学びがある田舎の芸術の方が好きです。
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