「誰かが見ている」という言葉は嫌い・・・

その他

今日の八丈島は、とてもいい天気でした。私は2ヶ月に渡るキノコの世話が終わりました。

実験を重ね、今できる世界で最高のものを作りました

先日、私が発送したキノコの件で、お礼を言われました。

そして、

また、よろしくお願いします

と電話でいわれました。どんな言葉よりも励みになります。

この仕事を区切りに、今度は、約1ヶ月の島外への出張が決まりました。細かく話せませんが、任務は決まっています。

このブログもまた更新が途切れますね

楽しみにしている皆さま、お詫び申し上げます


今日は、「「誰かが見ている」という言葉は嫌い・・・」と題してのお話です。


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「誰かが見ている」という言葉は私は嫌いです

私は、「誰かが見ている」という言葉が嫌いです。研究者時代に何度もこのセリフを聞きました。

責任感の低い人がよく使うセリフでした。結果を出さず、口だけの人でした。

私は、そのような人のセリフは無視して、寡黙でも結果を出す人とチームを組み、大きな仕事をしました。

そして、私を批判した人は、私が成功すると「彼はやると思っていました。」というセリフを言っていました。

そんなわけで、どんな尊敬する先生であっても、「誰かが見ている」を聞いただけで、気持ちが萎えてしまいました。


「言葉」も、実は、あまり好きではありません

私は、普段、単独行動です。誰とも行動は共にしません。

ですので、普段は独りなので会話はしません。言葉はあまり好きではないからかも知れません。

研究者時代のほとんどの論文は、英語で書きました。なぜ英語で書いたのかといいますと、英語が世界の共通言語だからではなく、

  • 頭のいい研究者に対して、自身が行った研究の考え方を隠すため。
  • 英語を使ってレフリーのコメントを操作するため。

でした。

それっておかしくないですか?

そうですね、でも、能力の無かった私が、世界レベルの研究者と直接対決して勝つためには、こんな細かな点に配慮して、ミリ単位で勝負して、勝機を勝ち取るしかなかったのです。

故野村克也氏の本に、「小事が大事を生む」と書かれてありました

私はこれを実践したのです

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でも、私の戦術に気づいた人は1人だけいました。私の知り合いの研究者でしたが、コメントに「もっと知っているよね」と書かれてありました。

当時の論文は字数制限がありました。私はそれを盾に回答しませんでした。

学会であったときは、笑いながら質問されましたけれどもね(笑)

研究者同士は、専門用語でディスカッションします。意味を限定した言葉を使います。より深く、より未知の世界へ進みます。

でも、懇親会でどんなに盛り上がっても、私にとって「言葉」は戦う道具でしかなかったので、心のなかでは幸せはあまり感じませんでした。


言葉をたくさん並べているとき、その裏で評価されていることを知るべき

私は、人を評価するとき、言葉よりもその人の行動や態度を見ています。今の時代、言葉はコピペができるからです。

行動や態度は、その人その人の立場で向かわなければならない仕事と合致すれば、信用できるし、そうでない場合は初めから話を聞く必要はありません。

そこで、私の嫌いな言葉「誰かが見ている」にもどるわけですが、私も口には出しませんでしたが、行動として「私はあなたを見ている」はやったことが何度かあります。

過去に、上司から対象の方を「クビにしていいかどうか」を尋ねられたとき、「それで問題ない」と言ったこともあります

かわいそうかも知れません。でも、任務を果たしていない場合、その方に生きる場所は無いのです。

私一人の評価がダメで、他の人の評価はOKは大丈夫です。私が単に頭がおかしいだけです。

ところが、私一人の評価だけでなく、異なる複数人の評価がダメだったとき、その人には逃げ場がないことを知るべきです。

誰もが、目で、声で、言葉で情報を発しています。「誰かが見ている」がさらに嫌いにならないような未来が来てほしいと思います。

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