先日、アメリカ時代にお世話になりました先生から、化学生態学分野の有名な先生の悲報が知らされました。
私は、大学院生時代、昆虫の生理学が専門でした。
そして、今から約20年前、私がポストドクとしてアメリカに渡り、そのときから専門が生理学から分子生物学と生化学寄りの化学生態学に変わりました。
初めての研究分野でした。国際学会へ行くと、コウチュウのフェロモンには様々な構造のものがあり、同定が難しいもの、合成が難しい化合物があることも学びました。
今日は、「化学生態学分野の研究者になって20年、研究者を引退して5年」と題してのお話です。
メモリアルセレモニー
亡くなられた先生は、化学生態学分野のコウチュウのフェロモンの専門家でした。アメリカに渡ったあとの最初の学会でご講演を拝聴した状況を覚えています。
当時は、英語は喋れませんし、聞き取れませんでした
パワーポイントのスライドを必死にメモをしましたね
お葬式は教会で行われました。今は便利なもので、YouTubeで同時配信もしてくれました。
海外の時間に合わせますと、日本は4:00でした。眠い目をこすりながら見ました。
ご冥福をお祈りします
ポストドク時代のアメリカの先生の私に対する評価
ポストドクとしてアメリカに渡ったものの、私は、博士課程後期だけで6年もかかり(交通事故に巻き込まれたせいもありますが・・・。)、論文もたった2報の落ちこぼれ研究者でした。
ですので、
当時の先生の私に対する評価はとても低かったですね
そして、研究室は実験台だけであとは何もない・・・。
私はクビが背中に見えていましたので、何でもいいので、すぐに実験を始めました。
結果がなければ、要求は口答えになる
先生は雇用者、私は被雇用者。上司と部下の完全な上下関係でした。
当時の研究室は引っ越しを予定していたため、ホコリまみれでした。PCR(Poplymerase Chain Reaction)をやればコンタミで何が正しいのか証明できないありさまでした。
「PCRが上手く行かない=実験ができない」と先生は私を評価しました。私はホコリまみれだから新しいチップ、チューブが欲しいと言いましたが、口答えとして見られたようです。
何も買ってくれませんでした
で、どうするか。私は結果が出ないのを分かっていましたが、古いチップとチューブを膨大な量の実験で使い潰しました。
そして、無くなりましたので、無理やり先生に新しいチップとチューブを買わせました(笑)。
絶対に負けないという気迫
私は落ちこぼれの研究者でした。でも、文字通り、そのレッテルを先生から貼られるのは嫌っていました。
私を推薦していただいた日本の先生の評価を落とすからです
ですので、捏造以外の手段ならば、どんな手を使ってでも勝ちに行くという姿勢で毎日を戦いました。
当時のエピソードです。研究に行き詰まったとき、
こんな実験で結果が出せないなんて、恥ずかしいことです
と先生から言われました。
先生、それを解決するには2つの良い方法があります
それは何ですか?
一つは、私が求める実験を先生がやってくれること(当時、先生と私は別々の実験を分担していました。)
そして、もう一つは、私ではないポストドクを雇うことです
先生の目を見て言い返しました。今でも、口を開けたままで固まる先生の顔を思い出します(笑)。
そして、先生にはこういうことも言ったことがあります。
もし、この仕事に失敗したら、先生、私をクビにしてもかまいません
当時の私は、本当に小生意気で闘争心の塊でしたね。そして、上司に対して失礼極まりない。
ただ、幸運なことに、先生は成果主義の人でした。私は頭の悪い研究者でしたが、なぜか、機会ごとに、大きな成果を出したため、首が繋がり続けました。
先生の悲しみ
先生も私をスパルタで教育してくださいました。
頭は生まれつきです。ですので、私は最後まで頭は良くなりませんでした。
ただ、訓練で変われるところは大きく変化しました。その結果、引用され続ける4つの大きな仕事に関わることとなりました。
先生が出会った研究者の中でも、私は一番変化した人物だったと思います。最後は、先生と私は以心伝心の関係になりました。
だからこそ、今から5年前、私が研究者をやめると言ったとき、先生はとても悲しまれました。
研究分野は人の継承です。私が研究者を引退してから、化学生態学分野の偉大な3人の先生が亡くなられました。
命は順々に閉じるもの。人は、上の人の意思を受け継ぎ、若者へ繋げる役割を果たす人に、順々にならなければなりません。
ですので、私が研究者を引退したことは、本来背負わなければならない仕事を放棄したことになります。
これに関しては、私は
あなたは、無責任です
と先生から言われても仕方がないと思っています。
化学生態学分野の研究者になって20年。それなりの仕事をしてきたと自負しています。
そして、研究者を引退してからの5年間、色々なことを考えてきました。でも、時間は後戻りはできません。
今、私は多くの方々に支えられて生きています。自身の経験を別の方の幸せにつながるよう、分野は変わってしまいましたが、手渡していきたいと思います。
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